韮山反射炉建設に関わっていたことは有名な話だが、その他にもたくさん功績を残してるがあまり名を知られていないスーパースター!
勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も英雄と憧れた幕末の知られざる江川英龍 (えがわひでたつ)とは?!
江川英龍ってどんな人?
通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、坦庵(たんあん)。
36代英龍(1801~1855)が代官として活躍した幕末の時代は、欧米の強国である国々がアジアの各地を次々と植民地化した時代であった。
その頃から彼は蘭学を学び外国の社会事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を不安に感じる。
ペリーに代表される開国要求に対する海岸警備や治安維持のために、農兵制度を提案したのも江川です。
東京湾のお台場(沿岸防備のための砲台)や韮山の反射炉建造に関する提案と実行、日本初のパン製造、 日本初の本格的洋式造船の監督、そして江川塾における教育など、むちゃくちゃ多くのことを行っているハイパークリエイター。
これら全ては日本という国を思って出たものであった。
同時に彼は欧米の共和制、民主主義に深い関心を寄せている。
また江川は代官として民政に心をくばり、行政として初めて種痘(天然痘の予防接種)を行い領民を天然痘の流行から守り『世直し江川大明神』と敬われていたため、百姓一揆は1度も起きていない。
一方では多彩な才能を持つ文化人で、数多くの書画、詩作、工芸品など残している。
わたしたちが現在使っている『きをつけ』『前へならへ』などの号令も江川が考え出したものです。すげーな江川さん!
と、ハンパないキャリアの英才でした。
経歴見るとスーパースターなのにあまり認知度がない気が、、、みんな知ってんのかな~?わたしの教養が足りてないのかな。涙
今から40年くらい前の教科書には、名前すら出てこなかったそうです。

その後、韮山高校の卒業生でもあり母校で教師をしていた仲田正之先生が、1985年に『江川坦庵』を出版してからは評価も高まったらしいです。
反射炉やお台場建設は戦後軍事色の払拭で、 江川の評価も下げられ歴史に埋もれてしまっていたが、ようやく本来の業績が再評価されました!
現在の教科書には江川太郎左衛門(坦庵)と掲載されるまでになりました。やったー!

華麗なる略年表
1801 | 江川誕生 |
1822 | このころより西洋砲術、蘭学を学びはじめる |
1824 | 代官見習いになる |
1835 | 父の病死により第36代韮山代官となる |
1837 | 伊豆沿岸海防のことを幕府に建議する |
1839 | 幕府に、外国事情、伊豆の海防について、また農兵について建議する |
1842 | 韮山で兵糖パンを製造を始める |
1846 | 伊豆諸島を巡視する 農兵制採用を建議する |
1849 | イギリスの軍艦マリーナ号下田に入港、船長と交渉して退去させる |
1890 | 支配地に種痘をおこなう |
1953 | 品川沖に海上砲台(お台場)をつくる工事にとりかかる 大砲鋳造のために反射炉建設の命令をうける |
1945 | 安政地震により、ロシア軍艦のセディナ号遭難。その代船製造の監督を命じられる |
1955 | 前年暮れに幕府より勘定奉行を命じられ、病をおして上京 1月16日江戸屋敷で急死(55歳) |
江川さんのお宅は重要文化財となっております。
その名も『江川邸』そのまんま!
▽こちらの記事もおすすめです。


